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近年の中学入試は、「大学入試改革」という受験業界の上流域での変化の煽りを受けて、これまでとは異なる力が求められるようになっています。特にどの科目でも「長文化」が進み、決められた時間の中で多くの文章を読み解く「情報処理能力」の要求レベルが上がりました。その結果、国語という科目だけに限らず、全ての科目に必要な土台となる力として「国語力(=文章読解力/語彙力)」が改めて注目されています。
一方で国語は、他科目と比べると「何をすればできるようになるのかわからない」と言われがちな科目で、お悩みのお子様・保護者様も多いことかと存じます。そこで今回は、私が考える国語という科目の魅力・面白さをお話しさせていただく中で、お子様の学習のモチベーションアップや保護者様のフォローのヒントにつながればと考えています。

「国語」に対する誤解①

国語講師をしているとよく耳にするのが、「算数は答えが1つにハッキリするけど、国語は答えがいくつもあって曖昧な気がするから嫌だ」という言葉です。この言葉は特に「算数は得意だけれど、国語は苦手」というお子様が口にしがちです。でも、果たして本当にそうでしょうか??
そもそも国語が本当に「答えがいくつもあって」「曖昧」なのならば公平性が担保されず、テストとして機能しないはずです。もちろん記述問題の解答は、算数のように1つの数値に落着することはなく、「許容の幅」はあるものの、それでもその解答の正誤を判断する明確な根拠(基準)は存在します。

例えば、「心情の記述」ならば……

「心情の記述」では、多くの場合、傍線部が〈反応〉に当たるため、まずはそれを引き起こした直前の〈出来事〉に着目することが鉄則です。〈出来事〉は必ず文章中に明示されているので、それをおさえるところからスタートするわけです。あとはその〈出来事〉と〈反応〉をつなぐにふさわしい〈気持ち〉を考えます。前後が決まっているわけですから、その両者に噛み合うものならば許容されます。

この「許容の幅」こそが、時に国語が「答えがいくつもあって」「曖昧」なものだと負のイメージでとらえられてしまう要因になるわけですが、むしろこの〝許容の範囲内でどこまで攻めるか〟という押し引きこそが記述問題の醍醐味だと私は考えています。例えば先の例だと、20~40字程度の短い字数指定ならば、示した通りの要素をつないで「第一志望校に合格できて嬉しい気持ち。(18字)」「合格掲示板に自分の受験番号があり、第一志望校に合格できたとわかって喜んでいる。(39字)」などとすれば良いのですが、難関校ではそれをさらに80字以上、時に100字を超える字数で書くことが求められるようになり、次のように発展させる必要が生じます。

情報量が増えることで、解答の「解像度」が上がるというのがおわかりいただけるかと思います。

「論理的に思考する」ことを楽しむ

このように、〝許容される枠組みを意識しながら、その中でより適切な表現や説明を追求していく〟ところに記述問題の面白さがあると私は考えています。授業内でもお子様たちのさまざまな解答を聞きながら、時にその正誤を他のお子様とも議論し合うのはとても楽しいものです。ですから逆に、「国語は答えがいくつもあって曖昧だから嫌だ」というのは、少々厳しい申し上げ方をすると、「国語から逃げるための言い訳に過ぎず、論理的に考えることを放棄した態度」だと残念に思います。
特に、算数が得意なお子様ならば、「文章題の中から立式に必要な情報を見つけ、整理する」ことができたり、「解答を導くために必要な補助線を、根拠を持って引く」ことができたりと、「論理的に」答えを導き出す力をお持ちでしょう。確かに見かけ上は大きく異なる科目ですが、両者の根底に共通している「論理的に思考する楽しさ」を知っているお子様ならば、国語も同じように楽しんでいただけるはずです。このコラムが、「なんだ、実は国語も面白そうじゃん!」と考え方や心の持ちようを変えていただくきっかけになれば嬉しい限りです。

早稲田アカデミー中学受験部中学受験1課

上席専門職・国語科責任者 本多弘篤